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ああああ、今から私はまた、分かりにくいことを言おうとしている。

 

「自己肯定できていて凄い」「人からの評価を気にしていなくて凄い」「自分を貫いていて凄い」(恥ッッッッッッず)

たま〜〜に言われる。

もしかしたらこれは、褒められているのかもしれない。だからその時には言わないけれど、本当は違う。真逆なの、真逆なのよ。

自己肯定感が強いのも、人からの評価を気にしていないのも、自分を持っている(恥ッッッッッッッッッッッッず)のも、それは本当だ。ただ、それは所謂(いわゆる)結果論というやつで。

 

例えば、自己肯定のお話。もう書いたかもしれないけれど、私は昔から自分に対して「自分にも他人にもマイナスな存在だ」という認識を持っている。

だから、そのマイナスを少しでも0に近付ける為に日々を生きなくてはならないのだ。「好きな自分になる」とかいうよりも、「生きていても許される状態になんとか持っていっている」という方が近いかもしれない。生きていくと決めた以上、これ以上に自分をマイナスに持っていくわけにはいかない。だから信号は守らなければならないし、落ちているゴミは拾わなければいけないし、他人の為に動ける人間でなければならない。私の正義を守れる人間でなければならない。自分に与える影響がせめてマイナスではないように、他人に与える影響がせめてマイナスではないように。

でもそうやって、自分を肯定できる状態に持っていった状態の自分はやっぱり、好きだ。自分の正義を守っている自分は、自分の中で当たり前にヒーローで、当たり前に最高にカッコいい。

だからつまり、こういう経緯で私は結果的に「自己肯定感」を持っている。持っているくらいじゃないと生きていてはいけない自覚があるから、持っている。勿論これは私が勝手に考えた私に対しての対策なので、自己肯定しなくても生きていていいと思うし、そんな言葉を脳内に入れる必要すら無いと思う。他人に当てはまる考え方ではないから。

因みに「自分を貫いていて〜」(恥ずかしいので割愛)というのは、それが自己肯定に繋がるからだ。

人の評価を気にしていないというのも、まあ似た感じで。気にしていないんじゃない、気にし出すと、吐き気や目眩や動悸でマトモな心と身体で居られないから、気にすることができないだけだ。そのくらいザコザコのザコだから、必死こいて気にしないように努めているだけなのだ。(ハム太郎)(”ざこ”を”雑魚”と書くとお魚に失礼な気がするし、”ザコ”と書くと擬音語みたいな気がする。困った。) 

 

一人ひとりがそれぞれに正義を持っていて、その理由もきっと違う。

例えばさっきも少し書いた信号を守る守らない問題(?)にしても、それぞれの言い分や正義があっていいと思う。私は「数分待つだけで子供の頃からの正義が守られ自分のことを嫌いにならずに済むのなら、余裕で待つ」と思っているのだけれど、私の知っている人は「信号は事故が起こらない為に設置されたものなので、車が全く通っていないのにその信号が青になるのを待っているのは、理由や意味も意識せずに形だけ守っているマヌケだ」と言っていた。これで分かるのは、私とその人はお互いに「大事にしているもの」が違うということ。つまり、守っている正義が違う。その人にとってはきっと「意味も無く信号を守る」という行為が自己肯定を妨げることになるのだろう。めちゃめちゃ面白いんだよこれが〜〜!!!(急に何?)

日々、何億という人間が自分の正義を自分の理由で守って、生きている。そこには論理的にとか効率的にとか、そういった観点は無くて。いや、論理的であることとか、効率的であることを正義そのものにしている人はいるかもしれない。勿論それはそれでアリだ。つまり、何と言えばいいんだろう。正論が無くなる、という表現が正しいのかもしれない。

他人の正義なんて分からなくていい、共感もしなくていい。これまた手垢の付いた言葉だけれど、自分の人生を生きているのは自分なのだから。ただ、自分の正義を理解する必要はないあるかもしれない。そうすることで、他人にも自分のように多種多様な正義があることを理解できるから。「信号は守るものだ」という正義を持っている人と「信号を守る必要は無い」という正義を持っている人が、一緒に信号を渡る必要は無い。お互いにお互いの理由で自分のそれを守って渡ったその先で、落ち合えばいい。

そうやって人は、他人を他人として愛していける気がする…。そんな……きがしゅ……りゅ…👶🍼