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人生プチ倦怠期だねー、と友達と話しながらサンショウウオを食べた。美味い魚。鮫の心臓も食べた。美味い貝。最高。

 

服を無限に買う時期。特にこの時期は可愛い服が多くて困る。気付くと緑の服ばかり買っている。黄×青ってなんであんなに可愛いんだ。混ざると緑になるからか。違うか。

 

映画を借りた。まだ観ていない。

 

 

好きなことを全部やりたくて、ブログとは別に文章を書き始めた。普段の生活で「これは歌詞になる!」ということや「これは物語にできる!」ということがチラホラあって嬉しい。しかし些細過ぎることなので、その瞬間にメモらないとマジで忘れる。忘れるマジで。

 

 

 

ここからが本題。ディスイズホンダイ。

才能のあること、自分のやりたいこと、自分の好きなこと、他人に評価されること、自分がやりたくないこと、、それらが噛み合わない、と嘆いている人が多過ぎる。音楽をやる人も絵を描く人も文章を書く人も服が好きな人も。

 

私は「どこに標準を合わせるかなのでは?」と思う。『自分の好きなことをやる』『他人に評価されることをやる』『才能を感じたことをやる』どれも全部正解じゃないか。向いていることをやるのが正しいのでもないし、自分のやりたいことを貫くのが正しいのでもない。他人の評価を気にするのが間違いでもない。

私の知っている芸人で、「お客さんにウケた所だけ残して、自分たちが気に入っていてもウケなかった所は切る」というスタイルで漫才を作っている人たちがいる。賛否両論あるんだろうけど、私はかなり感動した。そういうスタイルもあって、そういう正義もあるのだ。

 

自分が楽な方に行けばいいし、自分が楽しい方に行けばいい。何度も言うけれど、「楽しく生きる」ことが根本だ。楽しい方に行けばいい。

ただ、悩む気持ちも分かる。実際に私も悩んだから、こうやって考えるようにしているだけだし。

性別、身長、見た目、肌の色、体質、声、精神、色々なコンプレックス要素が脳みその中でグチャグチャになる。コンプレックスと言っても「整えたい」わけじゃなくて、憧れた他人と当たり前に違う点を、当たり前だとして受け入れることができなかったということで。

解消する為には、『自分で許せる自分』にならなきゃいけなくて。だから私は、『好きなことをやる』ことに重点を絞った。言わば、自己満足に重点を置いた人生にしている。だから好きなことは全部やりたい。というか、やってみないと気が済まない。他人に許されるよりも先に、自分に許されないといけないから。

 

でもいくら好きなことでも、「それを自分がやっている事実を好きになれるか」というのは重要な問題で。つまり私がいくらチェッカーズや50回転ズが好きだからと言って古めのロックンロールバンドをやったとして、私はきっとそれを好きになれない。いくら長身で色気ムンムンの男性ボーカルが好きだからと言って私がそれをやっても、私はきっとそれを好きになれない。なんてこったベイベーだぜ全く。

 

この気持ちは、きっとみんなが抱えているんではなかろーか。廊下。老化。廊下の老化でなかろーか。Say Hoo.

 

私は可愛い服は自分で着なきゃ気が済まないので似合っていようが似合ってなかろうが着るのだけれど、(というか服に自分を合わせている節がある) 世の中には「可愛いけど可愛いから私は着れない」という人もいるのだ。正直、しょーーーじき、「好きの気持ちが弱いんやろがい!やかましいわ!」と思っていたけれど、私がそういう音楽をできないのと何が違うのだろうか。何も変わらないんじゃないか。

 

「好きなもの×自分=好きじゃなくなっちゃう」という方程式は、存在するのだ。でもそれは全くもって悪いことではなくて。愛の形が違うだけで、そこには沢山の「好き」が詰まっているからとてもハッピーな方程式だな〜と思う。ラブアンドピース。キャッチアンドリリース。ヒットアンドラン。

 

つまり私の基準は『それが好きか』と『それをしている自分が好きか』なので、『才能の有無』や『他人の評価』は二の次なのです。どれを基準にするかなのです。才能が無いとやっちゃダメ!なんて、誰にも言われてないのです。むふ。

 

P.S 勿論、他のことに基準を合わせている人のことも大好きです。正義は沢山あってナンボなのです。個人の正義を自分と同じように他人の正義も愛していきたいʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ

 

✌️ラブアンドピース✌️