同じ足の指をぶつけたいです

どう考えても、4月後半バイト詰め込み過ぎて疲れたし頑張ったし疲れた。「疲れた」って図々しいし偉そうだし人の役に立った自信がある人しか使えない言葉だと思ってるから使いたくないけど、流石にこれは「疲労」であろうなと思ったで候。(韻ふみふみ)

バイト先で大好きな社員さんが「塚田さんがいてくれると、店内が明るくなります。」って言ってくれた。そんなこと初めて言われたから、ビックリして感動してしまった。

「くるみちゃんつまんない」って小学校の時に友達に言われたのがずっと残っている。実際私はど真ん中A型みたいな人間だし、大学に行くと自分が陰鬱でそれが情けなくて悲しくなるし、でも人前じゃ泣けなくて見た目だけ派手な暗い人になってしまうし。ノリ悪いし。冗談を冗談だと認識できないし。

「私が明るく楽しく誠実にお仕事をしようと思えているのは、この場所と社員さんや他のバイトの人、そしてあなたのことが大好きだからです」って言いそうになったけど、多分気持ち悪いからやめた。

 

 

 

 

人を嫌いになることと、関わる人を選ぶことは、別問題だ。と、最近思った。

何度も言うけれど、他人を嫌いになるのが本当に嫌いだ。果てしなく理不尽な感情だと思う。だから種類別やタイプ別に人間を見るのをやめた。絶対に全員の嫌いなところが浮き出てきて、誰も愛せなくなる。性悪説になってしまう。それが良いか悪いかはどうでもいいけど、私はそれがめちゃんこに「しんどい」と感じる。そもそも、タイプ分けなんて暇な人が暇潰しに考え出した結果論まとめサイトみたいなものだ。くだらない。割り切れないものを割り切ろうとするな。

人間は一人ひとりが個別に感情を抱いて生きている。本当にそれだけだ。生きているだけ。その生き方や考え方、物の見方がそれぞれに違う。一人の人間に対して「好きなところ」と「嫌いなところ」があるのは当たり前だし、そしてそれは人間そのものを嫌う理由にはならない。「そういう模様なんだな」と思うのが、1番正しい気がする。ここまでは、もう3年間くらい何度も何度も自分に言い聞かせていること。

 

そして私たちは、関わる人間を選ぶことができる。偉そうに聞こえるかもしれないけれど。「好きな人とだけ関わる」というのも、「嫌いな人とは関わらなければいい」というのも、なんか違う。さっきも書いたけど、人間に対して好きとか嫌いとかいう概念を消した私にとっては、全くピンとこない。関係が無いと思う。私にとって性別や年齢が存在していないのと同じように。

一人ひとりの人間が好きだ。けれど、私は全員と均等に関わる必要が無い。何故なら私にも感情があり、思想があり、価値観があるから。

でもそれが合う人としか関わりたくないわけでもない。人間同士は、そんなに簡単じゃない。

 

好きとか嫌いとか合うとか合わないとか、どーーーでもいい。

心が動いた人と、沢山の時間を一緒に過ごせたらいい。本当にそれだけだな。

 

なんでこんな話をするかというと、最近この問題で少しモヤっていたから。嫌いな人がいないというのは『八方美人』と呼ばれて嫌われるんだろうか、とか、人間全員が好きなのなら全員に好意を伝えるべきなんだろうか、とか、特別に仲の良い人がいるのはおかしいのだろうか、とか。

 誰に対しても良い顔をするのと、誰に対しても一人の人間として誠実に接するのは、違う。だから私は八方美人じゃない。そして、深く関わる人間は自分で心を優先して選んでも良い。ほい、解決!(多分!)

 

 

 

 

 

また去年他界した友達の夢を見た。去年の私の誕生日、7月11日、つまり私がその報せを聞いた時から、もう5回は見てる。今回彼女は、ベーシストになってた。二人組の音楽ユニットを組んでた。元々寄り目だから、なんだか焦点が定まらない、でも真っ直ぐに見つめるその目。と、綺麗な水色のベース。

小さい頃から不思議な魅力を持っていて、何にでもなれてしまいそうな子だった。私の夢の中で、本当に何にでもなれる子になってしまった。夢で会うたびに、「なんだよwwwww生きてんじゃんかよwwwww」って思う。何回も思う。

高校上がってすぐの頃、地元の駅で「友達ができない」とか言って。黒い猫が居たのも覚えていて。なつかし〜〜。覚えてるもんだな。

彼女の誕生日は私の丁度1ヶ月後の、8月11日だった。覚えてるもんだな。

 

 久しぶりにHASAMIgroupの「病気が治ったら」を聴いたら、泣いてしまった。

これ以上無い愛の歌だな。

 

センチメンタルだぜ〜〜なんだか〜〜

この後友達と会う予定があるので嬉しい。