振袖を着た話 と その他の話

やほ〜〜

 

振袖を着て写真を撮ってもらったよ。また綺麗なの貰ったらTwitterなりInstagramなりに載っけますね。(見ろ)

うーんと、私にとっては一大事件なので、書きますね。

 

尖ってるとか言われたならそれまでなのだけれど、私は成人式に参加せず、前撮りもしませんでした。

理由は色々あるのだけれど、まず第一に思っていたのが、「私が20年生きたことを祝われる意味が分からない」ということ。誰の役に立てた訳でもなく、何かを成し遂げた訳でもなく、20年経ったというだけで祝われるの、図々しくないですか。何が「おめでとう」なんですか。そんなことで、私が20年間生きたことで、家族に金銭的な負担を負わせるの、何とも思わないんですか。

次に、20歳になったからどうとか、成人式で祝われた日から「ちゃんとした大人になれるように頑張ります!」とか、意味分からなくないですか。よっぽど”高校を卒業した日”とか、”一人暮らしを始めた日”の方が人生の大切な節目じゃないですか。

あとこれはオマケ的なことなんだけれど、私は年齢に関するものに少なからずコンプレックスを抱いていて、だから何歳になったからどうだ、とかそういうくだらないことから逸脱した心持ちで生きようと決めている所がありまして。年相応、とか、ホンッットに嫌いで。そうやって決めたのに、20歳オメデトー!って、、「ウワ…」ってなりませんか。なりませんかそうですか。

ってか大人の女の人って、すごく気持ち悪くないですか。そんなことないですかそうですか。 

 

風習で、儀式で、そういうことなんだろうけど、何が「おめでとう」なのかさっぱり分からない。周りに迷惑をかけて生きている、マイナスを与えて生きている、生き永らえてしまっているという感覚が抜けない、こういう所がダメなんだろうか。

そもそも、自ら着飾って「条件:年の数」だけでお祝いされる場に行ってお互いに「おめでとう!」って言い合って、なんか、不自然というか、なんか、腑に落ちなくないですか。

 

そういうアレ(どれ)で、私は自分から「成人祝い」に関することについて何も関与しないように去年を過ごしてきたのだけれど。

 

自分でも分かっていたんです。これは「こだわり」でもなんでもなくて、「意固地」なだけなんだと。

 

昔からそうだ、他人の幸せを勝手に予測して、自分はその為に動いているんだと勘違いする癖。相手は勿論、私も、誰も、幸せにならない。

私がオモチャを我慢すれば、家族が喜ぶと思っていた。私が勉強を頑張れば、家族が、先生が、喜ぶと思っていた。私が私のことを何も言わずにニコニコしていれば、好きな人が喜ぶと思っていた。ずっとただ、ただただ嫌われるのが怖くて、求められていないことをするのが怖くて、それだけのことだったのに。

被害者意識でもなんでもなくて、私が「自分がやりたいこと」と「自分ができること」「自分ができないこと」全部を相手が求めているはずだ、と思ってやっていた。そういうところが、本当に私の至らないところのひとつだ。

分かってはいたものの、また、いつの間にか意固地になっていた。「それ」が、家族の幸せなんだと、勝手に決めつけていた。だから、上に書いたのは長い長い「言い訳」に過ぎない訳です。

 

そんな(どんな)12月中旬、お母さんから「振袖、着てみたかったら帰っておいでね。」という内容のLINEが届いた。

なんか、私の歪で脆過ぎる壁を優しくノックしてくれたみたいな、そんな感覚で、1人でお風呂でめちゃめちゃ泣いてしまった。「でも、振袖はお金がかかるから…」と言うと、「レンタルなら安いよ大丈夫(^_^)」と言ってくれて。「意地を張っていた」ことが明瞭になればなるほど、ブワッと涙が出てきて、やっと「ああ、また1人で無理やり自己解決しようとしていたんだな」って分かった。んで、満を辞して(やかましい)2月に撮影することに。

 

実はまだ19歳だった時に見つけた可愛い振袖(ちゃっかりサイトを見て良いなあと思っていた)を予約して、写真館や着付けの予約もして、髪の毛どうしようかな、とか、それまでに痩せなきゃ!とか、なんだか恋をしたての高校生みたいな気分に。笑

 

 

ここで少し話は変わるのだけど、時系列的にここなのでここに書きますね。(※後で読み返したらここから振袖の話に戻るまでバカ長かったです!覚悟して!!)私は3ヶ月くらい前に舌ピアスを開けまして。両親が二人とも歯科関係の仕事をしていることもあって、反対されるのは目に見えていたから、ずっと言えずにいたのだけど。ついこの前、今回帰省してすぐに、打ち明けたんですね。

そしたらも〜〜〜〜ボッコボコに反対されてしまって。

その時は自分の正義を否定されたのが心に刺さり過ぎて何も言えず、冗談交じりに笑って抜け出してトイレに逃げ込んで震えていたんだけど。後から改めてお母さんと話をしたら、そういうこと(舌にピアスを開けるだとか)でリスクの高まる病気だとか、精神状態のことだとか、所謂(いわゆる)アンダーグラウンドな世界の怖いところだとか、そういうことへの心配の気持ちが凄く強いみたいで。

お母さんの言ってくれた言葉を簡単にここに書くと、

「自分が良かれと思ってしたことがこうやって身近な人に批判されると嫌な気持ちにも悲しい気持ちにもなると思う。だから止めろとか絶対させないとかそうじゃなくて、私は胡桃ちゃんと1日でも長く一緒にいたいから癌や病気のリスクになるようなことはやめて欲しいと思うのが、お母さんの当然。この前言った『他に楽しめることはあるんじゃない?』とか『そこで個性を出さなくても』っていうのもそういうことじゃなくて。お母さんもお父さんも口の中の仕事をしてるから病気やリスクを沢山知ってる。だから、胡桃ちゃんがそれに魅力を感じてしたことは否定しないけれど、『何故よりによってそこ?』ってなってしまう。ずっと一緒にいたい気持ちが強いから。」

と、いうことだった。と、思う。(違ってたらごめんお母さん)一晩中伝え方を考えてくれていたそう。

「相手の価値観を否定しないこと、行動を束縛しないことを伝えた上で、自分の気持ち、それの理由を明確に伝える」ってすごく難しくて大切なことなんだなと改めて思った。

そして改めて、深い愛だなあと感じた。

ここまで書いたから私の気持ちも書いておく。

私としては、ケジメとして、ライン引きとして、開けたつもりだった。他の何にもなれない私は私になるしかなくて、でも自己満足できる私じゃないと生きている意味がなくて。私は私が1番理想とする「塚田胡桃」にならなければならないということに気が付いた時、私の今までの「既存のものへの憧れ」からなる「正義」に終止符を打たなければならないと思った。そして私がまた正義を作り出す上で違反にならない第一歩として、「舌ピアスを開ける」という行為は相応しいと思った。(あと、他にどこも開けていなくて舌だけ開いてたら面白くね?!って思った。人はこれを浅はかと呼ぶ。)ただ、その精神を他人に伝えるのはとても難しい。

私は一人暮らしを始めて二年間で沢山正義を固めようとしたし、崩したし、また固めようとして崩れたりした。好きなカルチャーで踏み絵もした。『世界変わった!』って錯覚もした。それは、とても狭い世界だ。それが悪いって言いたいんじゃない。みんな一人ひとりが持ってる世界なんて、超ウルトラ激狭四畳半以下押入れサイズの世界だ。それで良いと思う。ただそこに忘れてはいけないのが、「換気」。地元に帰ることだってそうだし、他人と会話をすることだってそうだ。(振袖を着ない、と意地を張っていた私がお母さんからのLINEで泣いてしまったのがいい例)福井に帰ってくると無理やりに心を換気させているような気持ちになる。それはとても寒いし悲しいし不安だけれど、だからまた不純物の無い状態でかき混ぜたり煮込んだりできるのだ。

 

なんか話変わっちゃったな。(あるある)

 

つまりだ、私は私がここ二年間でこねくり回した正義を過信してはいけないし、風通しの悪いまま思考を続けてはいけない。そして、その正義が他人に伝わると思ってはいけない。家族とて、他人だ。勿論マイナスな意味ではなくて。

そういうことを思った。と同時に、1年前に帰った時よりも私の身体や頭の軸が「神奈川での生活」から来たものが多くなっていることにも気が付いた。月日が経てば経つほどそうなるのは当たり前で。言い方を変えると、福井に帰れば福井に染まっていた私の頭が、そうでなくなってきた、ということ。分からない、この神奈川と福井の異世界を行き来しているような感覚に、慣れてきたのかもしれない。そうやって考えながら一人で乗った福井行きの電車の中で落ち着こうと思って聴いた曲が、神奈川に行ってから知った曲だった。こうやって土地や文化や記憶、感情がこんなにも目に見える形で交錯するのは初めてだった。なんだか、もう戻れない気がした。

そうそう、しかもその電車の中で高校の時に書いたらしい「20歳の私へ」っていう手紙を読んだんだ。もうごちゃごちゃだな。笑

当時好きだった音楽とか、やってたバンドとか、仲の良かった友達とか、「音楽辞めてたらまた始めたらいーよ!」とか、「行き詰まったらこの曲聴いて!」とか、本当に色んなことが書いてあって。素直だなあというか、安直だなあというか、やっぱり私は上京してから卑屈になることが増えたなあと再確認したというか。まあなんか「そうかあ」という気持ちになった。 

家族の愛も友達の愛も自分からの愛も感じつつ、こうやって地元離れってしていくのかなあと薄々感じた私なのでした。

 

そしてこの長い長い旅路を経て話題は振袖の話に戻るわけです。

「嬉しい」「可愛い」「思春期」「大人気持ち悪い」「矛盾」「照れ臭い」「はしゃげない」「申し訳ない」「ごめんなさい」「女性じゃないのにな」「女性気持ち悪い」「でも嬉しい」「でも可愛い」

これが、着付けをしたもらっている時に感じたこと。精神的ダメージ(ダメージではないけれど)は思っていたよりあった。初めてお母さんに「スカート履きたい」って言った時みたいな気持ち。初めて生理になった時みたいな気持ち。例えが悪いけどそういうこと。勿論楽しかったけれど。

 

そうそう、ロリータは恥ずかしくないのになんで振袖は抵抗があるの?って聞かれたことがあるので書いておきますね。ロリータファッションっていうのは、基本的に「少女服」なんですね。逆に振袖は、成人した祝いに着る物、所謂(いわゆる)「大人記念服」なんですね。真逆じゃん。以上🐤 精神の話な🐤

 

ってか猫可愛いマジで本当に飼いたい飼いた過ぎる。

 

さいなら。

 

舌ピアス閉じるかどうかはまた考えるワ。