肴は炙ったイカでいい 🐙←これはタコ

皮膚が皮膚に当たる感触や、歯から歯茎に伝わる振動。そういったものがやたら魅力的にかけがえの無いものに感じる瞬間がある。何となく布団の中で歯をカチカチしていたら、歯がとっても固いことに気が付いた。突然に生を実感するきっかけは、思わぬところにあるものなんですね。

何かを食べて、それがそのまま血肉になっていくのを実感する時の感覚と似ている。自分が生きている事実に興奮する。心臓が脈打って、血が流れて、全身に感覚がある。目が見えて、耳が聞こえる。光として、振動として。

家で飼っているカエルの喉元が動いているのを見た時も、トカゲのお腹が呼吸と同時に膨らんだり引っ込んだりしているのを見た時も、同じことを思う。

 

食欲、性欲、睡眠欲。人間の三大欲求と呼ばれているみっつ。

性欲が苦手だ。卑しい感じがするから。汚い感じがするから。理性を超えている感じがするから。大人にならないと芽生えないものだから。

ただ最近は、食欲も性欲も同じだなとも思う。人前で食事をすることの緊張感、罪悪感、晒し者にされているような羞恥心。植物や動物など、他の命を取り込み、自らの命に加えるという行為を他人の目の前ですることが普通になっているのが、不思議な気さえする。

実際、他人とのコミュニケーションを深める行事として「ご飯行こう」が多用される世の中になっていることにも違和感を感じる。うーん、いや、もしかしたらこれは妥当なのかもしれない。そもそも昔から人は食事という「他の命を頂く」行為を経て、仲間意識を高めて来たんじゃないか。となると、「心を許す」の序章が食事で、その最果てが性交渉なのでは…?

しかしいくら心を許していたとしても性交渉を迫られた途端に関係が破綻するというのも、少ない話ではなく。その時点でこの話が正しくないことは証明されてしまうのだけれど。でも、それは人類が理性を得たからじゃないか。理性を得て、感情を得て、「心を許す」という感情を二種類に分けることができたからじゃないのか。パターン①の「心を許す」だった人が急にパターン②のスタンスで来た場合、確かにショックは大きい。逆も然り。

 

欲に関するものに罪悪感を持つのは人間だけなのかもしれない。その罪悪感から逃れる為に、肉を食べないだとか、禁欲だとか、断食だとか、そういうことをするんだろう。しかしそれは、逆に自分が人間であることを認め、他の種族との差別を認めていることになるのではないか。

虫が虫を食べる時、罪悪感など感じないだろう。動物が動物を食べる時、「可哀想」だなんて思わないだろう。そもそも人間が動物と同じように弱肉強食のルールに則って生きるのであれば、人間は動物を食べるべきだ。それが人間が動物として世界に溶け込むということだと思う。そこに罪悪感が生まれるのは、人間が理性を得たからだ。そしてその罪悪感に逃げて動物を食べないのは、自分は理性を得た人間であると認めているからだ。

何が言いたいのかと言うと、他の動物を尊重する為にその肉を食べないことは、逆に自分は他の動物とは違う人間であるということを認めていることになり、結果、尊重しているとは言えないのではないかということ。

ただ、「命を頂いている」という自覚は大切で。罪悪感も、理性も。人間が人間という種族の動物として生きる上で、最も大切な感情であるように思う。手垢のついた言葉ではあると思うけれど、「罪悪感から逃げず、感謝をしながら命を頂く」のが私に合っている気がする。

 

何の話をしていたか忘れた。こんなに重い話をする気は無かった。誰の正義も、否定するつもりは無いです。生きやすい考え方で、楽しい感じで。宗教はセルフが一番信用できますよ、というお話でした。

ただやっぱり人が何かを食べている様子は、なんだか不思議な気待ちになりますね。私は見られたくないけど、ついつい見ちゃう。大食い動画とかだいすき 🍙🍙🍙🐳

私に色んなことを教えてくれたとても好きな友達が「大食い動画はAVだと思う」って言っていたのを思い出す。きっとそうだね。