そろそろ実家帰ってスマブラしたい

「高校生時代」という、余りにも暇で虚無で雑で怠惰で誰の期待にも応えることのできないそれなのに無敵に楽しかった時期を経験しなかったら、私はきっと全く別の人間になっていただろうなと思う。幼い頃から中学まで頑なに抱いていた「正義(だと思っていたもの)」の元で、その中で、何かを築いていた。きっと。

 

自分の中での1番古い記憶は幼稚園の頃なのだけれど、やはり私は馬鹿馬鹿しいくらいにルールや言いつけに忠実で、それを守らないことは本当の本当に許されないことだと思っていた。(例えばお母さんに「嘘はいけない」と言われれば自分の発言全てに確信が持てなくなったし、先生に「寄り道はいけない」と言われれば帰る為に通るべき道しか見てはいけない気がした)

特に覚えているのは、国語の授業で先生が「読点は1秒、句点は2秒待ちましょう」と教えてくれたことや、「漢字はひらがなより大きめに書きましょう」と教えてくれたこと、そういったことがルールとして取り決めとしてずっと残っていて、今まで読めていた本が急に読めなくなってしまったことだ。全てを守って読もうとすると、今まで楽しかったはずの読書が、ただただ苦しく、どうしようのもないものになってしまった。息の仕方も忘れそうになるくらいだった。呼吸<句読点の秒数だったし、本の内容<漢字とひらがな問題だった。

知らず知らずのうちにそれを「気にしすぎない」ことを覚えたし、本も読めるようになったけれど、やはりそのルールはルールとして今でも呪いのように残っている。

 

私には自分ルールも沢山あった。自分の中で嫌な数字の数の拍手を人に送らないようにしたし、地面や空から息を吸うのが今でも怖い。(当時私は空に天国、地面に地獄があると思っていて、どちらとも死に変わらなかったのでその空気を体内に入れることを密かに拒んでいた) 自分ルールはひらがな、漢字、カタカナ、それぞれを頭の中で再生する際のイメージや、字体のそれにさえ及んだ。(思えば私は、文字の形や種類にこだわりを持つ傾向にあるみたいだ) それは今でも私を楽しませたり苦しませたりするけれど、うまく付き合っていきたいなと思う。思ってはいるのよ。

 

 

 

そして私は、常にお金のかからない、物分かりの良い、言いつけを守る子でいようとしたし、実際にそうした。そうしないと、生きていてはいけない気がした。常に罪悪感が共にあった。元々マイナスのものを、誰にも気付かれないようにこっそりプラマイゼロにしているような感覚で、そのプラスの分は自分で補えている自信があったので、その点では私は周りの子を見下していたのかもしれない、と今になって思う。

実際、『良い子ぶってんなや』と蹴るなどされたこともあったけれど、私は彼女の「正義を疎ましく思う気持ち」が愚かで可哀想だ、と思っていたので平気だった。でも蹴られたのは初めてだったので家帰ってアイス食べながらちょっと泣いた。今思えば、私も傲慢だった。(そういえば彼女は中学高校と上がるにつれて「いい子」になることを覚えて、私よりもとってもお勉強のできる大学に行った。医療関係の仕事したいらしいよ。意地でも診察されたくねえな。)

その頃私が思っていた「こうすれば親は喜んでくれるだろう」「こうすれば先生は喜んでくれるだろう」というのがきっと全て正しくはなかった、ということに気が付いたのは最近だ。私がオモチャに興味が無いフリをしても、それはお母さんを喜ばせていたかどうかなんて分からないのだ。自己満足に過ぎないし、きっとそうやってプラス事項を仮定的にでも加点していかないと、生きていけなかったのだろう。自己満足でいいと思う。天晴れだと思う。

 

最初に書いたように、私は「余りにも暇で虚無で雑で怠惰で誰の期待にも応えることのできないそれなのに無敵に楽しかった高校生時代」を過ごした。それはすごく無駄で、今までの自分への裏切りで、積み上げたものを捨てながら生きているような感覚だった。本当に楽しくて、愛すべき無駄だった。何も生まなかった。(好きな友達は沢山できた) しかし、その時期があったから今私はそれまでの自分を客観的に見ることが出来るし、感情や行動の理由を推測することが出来る。

私は今まだ20年しか生きていないけれど、実際は二度生まれ変わりを経ているような気分でいる。中学までと、高校と、高校卒業から今だ。勿論変化はグラデーションだけれど、過去のことを思うと別の人間の歴史を辿っているような気持ちになる。しかしやはり同じ肉体に同じ血が流れているので、とても愛おしく感じる。そういうことなのだ。(どういうことなのだ)

 

何故突然こんな話をし出したかというと、西加奈子さんの「i」とピース又吉さんの「夜を乗り越える」を読んだからだ。どちらも本当に面白くそして読みやすく、何と言っても子供時代の行動や感情の記述に感銘を受けた。何を書いても本人の文章には敵うはずもないのでこれ以上書かないけれど。

最近本を読むのが楽しくて嬉しい。

 

本に関わらず、私は他人が子供の頃にどういった境遇で、何を考えて過ごしていて、今それをどう思うのかということを知るのが、結構好きなのかもしれない。「こんなことを考えないと生きられないのは私だけかもしれない、私だけかもしれないけど、別の人は別の何か違う私には到底思いもつかないことで脳みそをいっぱいにしているのかもしれない、」その答えが色んな色で見れる気がして楽しい。子供の頃なんて特に小さな脳みそや気持ちで考えるので、極論になって当たり前だ。その愛おしい極論と、今それを改めて見た時の心の動きを教えて欲しいなと思う。

そういえば前までは、他人の正義や宗教を知ると自分の中のそれと合っていたり違っていたりすることが怖くて、他人の考え方が入っているものが読めなかった。けれどそこから映画を観るようになって、漫画を読むようになって、今までよりも色が形成された人と話すようになって、それを面白いと感じるようになれた。良かったなあ。共感の有無で物事を測るのは本当にくだらないことだなあと思う。

 

なんだかどうやってまとめたらいいか分からなくなったけれど、今日は機嫌が良いのでよしとする。

 

おやすみ♡

 

追記

又吉さんの書く文章は「作家と読者の間」という感じがして、そこにとても温かみを感じる。良い意味で、作家ほどの完璧さやツッコミどころの無さが無く、「しかし私はこう思ってしまう」や「つい○○してしまう」とかいった表現をしてくれる。深い絶望でも徹底的な拘りでもなく、一種のゆるい諦めのような。諦めと言っても「受け入れる」とか「許す」に近いような。あ、なんだ、同じだな、と思える。好きです。(ずきゅん)