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今から唐突な入りをします。ということを、宣言しておきます。私はこれを「宣突」(セントツ)と呼びます。(呼びません)

 

 

前にも書いたけれど、私は日常系の映画が好きだ。日々が淡々と、いや、側から見たら淡々と進んでいる日常が本人にとっては緩やかなドラマになっていたりなっていなかったりするようなやつ。奇跡なんて起こらず、道徳性も無く、主人公の成長を描いたわけでもないようなやつ。

映画の中の彼らも私たちも、生きていく中で数え切れないほどの決断をし、選択をする。今日はご飯を食べようかそれとも麺を食べようか、何処に引っ越そうか、仕事はどうしよう、趣味、恋人、友達、、、選ぶことを沢山するのと同時に、選ばないことも沢山している。選んだ数だけ、選ばなかったものがある。選ばなかったものを度々思い出しては、悲しくなったり後悔したり遣る瀬無くなったりする。そんな感情とボンヤリ戦う姿こそが、究極に「日常系」であると私は思う。

 

そこで私が最近考えるのは、「自分が選ばなかったものが選ばれた世界線」のこと。これだけ無数に選択をして来たのだ、それはもうとんでもない数の世界線が存在しているに違いない。しかし「私」が今生きているのはこの世界線なので、1番考えなければならないことはやはり「他の世界線の存在を認めた上でそれにどのような感情を抱くべきか」であると思う。(長い!)

 

結論から言うと、私は他の世界線を必要以上に羨ましく思うべきではないし、恨めしく思うべきでもない。それと同時に、軽く見るべきではないし、「選ばなくてよかった」と思うべきでもない。1番は良いのは、「愛する」ことであるように思う。と、いうこと。(アイタタタタ)

しかし厄介なことに「愛する」という言葉は、人によって感じ方や定義があまりにも様々過ぎて分かり辛い。この場合の「愛する」とは、他人に対して漠然と感じる「みんな幸せになって欲しいなあ」みたいなやつ。(私は博愛主義なのでよく思う。) 不特定多数の他人を愛する時と同じ気持ちで他の世界線の自分を見てあげましょうよ、と。そういうこと。(どういうこと)

 

 何故そう感じるのかというと、他の世界線で存在している自分は最早他人であり、その中でも『自分に1番近い他人』であると思うからだ。その『自分に1番近い他人』を受け入れ、愛することで、自分と同じ世界線にいる他人のことも愛することができるのではないだろうか。そして更にこの世界線の自分のことを愛することにも繋がるのではないだろうか。

 

こうやって私が面倒な方法で他の世界線に想いを馳せている時も、何処かの私はきっと私に想いを馳せてくれている。1番信用できる自分という人間が、私が好きな人間に対して抱く「幸せになって欲しいなあ」という漠然とした愛情を持って私を見てくれている、というのは何とも温かみがあることだと思いませんか?思いませんかそうですか。

 

「取捨選択」という言葉はあまり良い言葉ではないなと思う。選ばなかったからと言って「捨てた」わけではないからだ。何故そんなわざわざ選択したことを後悔しなければならないような言葉を作ったのだろうか…愛せなくなるに決まっている…(;o;)

 

あのまま教師を目指して教育系の大学に通っているかもしれない私も、あの時ご飯じゃなくてパンを食べた私も、幼い頃の夢を叶えて皮膚科の先生になっているかもしれない私も、みんなそれなりに幸せに頑張れ〜!音大とかいうイレギュラーな選択したやつに言われたくないと思うけど!!!

 

ぱ👋